幸せの価値基準
例えば生育歴の中でよく怒られていて怖い思いをした人は、怒らない・穏やかな人にとても大きな安心や価値を感じるかもしれないし、
かまって欲しかった人は、お世話を焼いてくれる人をとてもありがたく感じるかもしれないし、
厳しく育てられて辛かった人は、何事も大らかに受け流してくれる人を探すかもしれない。
このように人の価値基準とは、自分の過去の経験との比較によって作られることが大半だと思います。
私はそれが当たり前のことだと思っていたし、特に問題だとも感じていませんでした。
そんな中、結婚当初、主人とくだらないことで喧嘩になった時、それが問題なのだということに気づかされたのです。
「正直なところ、こうやってあなたに頻繁に気分を害される日常が耐え難い」
といったニュアンスのことを主人に言われた時、私はとても驚きました。
え?頻繁に?全然なんですけど!
毎日こんなに穏やかに過ごせるのは今までで生まれて初めてなんですけど!!
たまにはすれ違いもあるだろうけど、総じてずっと幸せなんですけど!!!
私にとっては「頻繁に」とは全く思ってなく、ごくたまーにある夫婦のすれ違いだと捉えていたものだから、とても驚いてついこのように言い返したら、
「あなたが今までの人生でどれだけ穏やかじゃなかったかなんて知らないよ。僕のことも考えてよ」
と言われ、さらに驚きました。
そして「私のこれまでの辛い想いなんか知らないよって、冷たすぎませんか...」とすら思ったのです。
だけどその後少し時間が経ってわかりました。
過去の経験と比較するのは、今目の前にいる相手に対してとても失礼だということを。
もっとはっきり言えば、
以前お付き合いしていた人よりは優しい
以前お付き合いしていた人よりは楽しい
と言っているようなもの。
こんなことを言われて嬉しい人はいないでしょう。(もしいるなら、よほど自尊心が低いか)
そんな価値観で相手を見ていることになるんだって知った時、とてもとても反省し、下げた頭を上げられないくらい申し訳ない気持ちになりました。
そして、その時の延長上にお互い話したことも、とても印象深く残っています。
「僕は今までの人生を振り返って、幸せだったことのほうが多い」
「私は今までの人生を振り返って、辛かったことのほうが多い」
そう。
2人はバックグラウンドが全然違います。
だから、過去の経験をもとにした幸せの価値基準に沿っていたら、もう2人はとっくに一緒にいられません。
今私たちが一緒にいられるのは、そんな曖昧な価値基準を手放して、本質的な価値に目を向けるよう日々努力しているから。
「相手そのものを見る」とはよく洋輔先生が言うけれど、これが実践するとなるととても難しいです。
そんな中、フリダヤヨガの「呼吸そのものを見る」という練習は、普遍的で本質的な価値を見つめ、理解する良い練習になっています。
呼吸には、
昨日より上手な呼吸
いつの日かの私より呼吸が下手
なんてないのだから。
生きている時点で呼吸そのものは命を与えてくれているのだから。
あまりにも当たり前すぎるこの事実に日々、目を向けて集中し、それにより本質的なものを理解し、そうでないものと区別できる自分でいたいなと思います。
継続的に愛することは努力です。
気質などの相性の良し悪しはもちろんあるけれど、それよりも私は「継続的に愛することへの努力や熱意の分量が同じくらいであるかどうか」が相性だと思います。
主人は、私が努力したいと思わせてくれる唯一の人です。なぜなら主人は継続的に愛情を注ぐ努力を怠らない人だからです。
だからこれからも私は自分が幸せであるための努力をしていきたいと思っていますし、同時に何が私にとって幸せかという価値基準が本質に沿っているものであるかどうかを見極め続けたいと思っています。
そのためにヨガの練習を続けます。
とても心に響きました。ありがとうございます。
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